神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が殺された事件から3カ月が経つ。戦後最多の被害者を出した凄惨な殺人事件といえども「人の噂も七十五日」に近づく。1年を振り返る年末のテレビ番組で取り上げられ、そのときは過半数の人が「そんなこともあったね」と思い出すが、すぐに脳の中の記憶の本棚の片隅に置くことになるだろう。

 世の中では毎日のようにさまざまな出来事が起きていて、その騒音にかき消される。自分の身に降りかかった重大な出来事でない限り、残酷な事件であっても人は“消費”していく。人間とは元来そういう生き物なのだ。

 相模原市の殺人事件について「自明性の喪失」という言葉が一人歩きしている。「自明性の喪失」と言えばドイツの精神病理学者ヴォルフガング・ブランケンブルクの著書『自明性の喪失』(邦訳みすず書房。1978年)が有名だ。この本は統合失調症を扱った古典として知られる。

 やまゆり園事件の被害者である障害者を侮蔑する言葉を容疑者は残しており、報道機関をはじめさまざまな人が批判の声を上げた。しかし容疑者に心神喪失者の可能性が指摘されるようになると批判の声は小さくなっていった。報道機関も歯切れが悪い。

 この背景には日本の刑法がある。刑法は犯罪行為を認定するために3段階のフィルターを設けている。まず構成要件該当性(刑法に記されている行為かどうか)、次に違法性(正当防衛の成立の可否など、その行為の違法性が阻却される事由があるかどうか)、最後が責任能力(行為の責任を判断する能力があるかどうか)である。容疑者が心神喪失者の場合責任能力がない、つまり裁判で責任無能力と認定され、刑法39条1項に基づいて不処罰になる可能性が高い。

 統合失調症のような心神喪失者となれば報道では容疑者の実名が匿名に切り替わる。残るのは事件の再発を防ぐために重篤な精神疾患患者を措置入院させる厳格性の是非だろう。

 2001(平成13)年に起きた大阪教育大附属池田小での児童殺害事件を起こしたのは措置入院を繰り返していた男で、退院直後の犯行だった。

 措置入院は人権の問題と絡む。諸外国はさまざまな対応をしているが、日本では明快な正解を導き出せない。以上が、精神疾患としての「自明性の喪失」すなわち統合失調症患者による犯罪に対する日本の現状である。

 このほかに、幅広い意味を含む「自明性の喪失」がある。例えば加藤締三・早稲田大名誉教授は東京放送(TBS)の番組で相模原事件を指して「現代人は多かれ少なかれ自明性の喪失が起きている」と論評した。「当たり前や常識を身につけていない人がいる」という趣旨で語っている。容疑者が障害者を蔑視する発言をしていたことから、人の命を大切にするという「当たり前や常識」を持っていない人が増えているのではないかという問題提起だろう。

 そもそも「自明性」すなわち「当たり前や常識」に普遍性はあるのだろうか。

 例えば、統合失調症に対して「当たり前や常識」はあるのか。米国で爆発的な人気を誇った医療ドラマ「ER」のシーズン6をNHKが再放送した際、13話と14話を放送しなかった。統合失調症を想起させる男が殺傷事件を起こすという内容である。

NHKが再放送しなかったのは「精神障害に対する誤解や偏見を助長するおそれがある」という理由だった。米国で「当たり前」に放送されたドラマであり、NHKのBSですでに放送したにもかかわらず、妙なところで誰かが「待った」をかけて再放送を中止にした。NHKの対応を見ても「当たり前や常識」の判断基準はないも同然である。

 また例えば、人の命に対して「当たり前や常識」はあるだろうか。「命は地球より重い」という表現は1977(昭和52)年にダッカで起きた日航機ハイジャック事件で犯行グループの求めに対して当時の福田赳夫首相が言った言葉として広く知られる。実はこの言葉は1871(明治4)年に出版された『西国立志編』(スマイルズ著・中村正直訳)の序文にまで遡る。

「命が地球より重い」のが「当たり前や常識」なら戦争や紛争は起きない。しかし実際には世界大戦が2回も起きた。日清戦争や日露戦争、ベトナム戦争、朝鮮戦争などなど枚挙に暇がない。

「命は地球より重い」は、数々のテロを仕掛けている過激派組織「イスラム国」(IS)に全く通用しない。いや、そもそも日本だってわずか70年前に若い命を特攻隊で奪ったではないか。

 さらに例えば、命を奪う武器である銃に対して「当たり前や常識」はあるだろうか。日本は銃の所持を法律で禁じているし、日本人の大勢は銃社会の米国を信じられない思いで見る。しかし米国では1人が1丁以上の銃を持っている計算である。米国で銃の所持に賛成する人たちは「撃たれる危険性を受け入れるから、防衛上撃つ権利を持つべきだ」と主張する。

 さらに個別に見てみよう。死刑制度に関連して「当たり前や常識」はあるだろうか。日本には死刑制度がある。だから容疑者を生かして捕らえ、法の裁きを受けさせることを警察は目指す。一方、死刑制度がない国々では警察が容疑者をけっこう安易に射殺している。法の裁きによる「死」がない国のほうが容疑者の命を軽く扱う傾向が顕著だ。

 宗教に「当たり前や常識」はあるだろうか。キリスト教には偶像があり、イスラム教は偶像崇拝を禁じる。いずれも一神教である。一方で日本には八百万の神がいる。

私たちは自分の経験や環境に基づいて考えることが多い。ここに落とし穴がある。「当たり前や常識」と私たちが思っていることが実は時代によっても国によっても宗教によっても文化文明によっても異なるのだ。したがって「当たり前や常識」と加藤先生が言う「自明性」は幻想と言うべきだろう。

「話せば分かる」と言う犬養毅首相を「答いらぬ」と射殺した5・15事件が起きたのは1932(昭和7)年のことだ。80年ほど前の話とはいえ、日本人同士でさえ「話しても分からない」のである。今「グローバリズム」という言葉が闊歩しているが、国際社会も「話せば分かる」ものではない。国を超え人種を越え時代を超えて一貫する「自明性」などないのだから。

「自明性」のない世界に私たちは住んでいると自覚して、「話しても分からない」と覚悟を決めておく。こうすれば落胆は小さい。

 

《写真の解説》

宮崎で訪れたいと考えていた2番目の場所が鵜戸神宮です。岩窟に社殿があるという独特の構造をこの目で見たいと常々思っていました。極彩色の鳥居や社殿は想定以上に見事でした。

 

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鵜戸神宮楼門(現在工事中)の横に幾重にも重なる鳥居の奥に鵜戸稲荷神社があります。

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日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟内に本殿が鎮座します。神社としては珍しい「下り宮」の形となっています。

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灯篭の奥が岩窟です。階段もかなりの斜度で珍しい風景をいかに切り取るか腐心します。

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本殿前にある霊石亀石です。石頂に枡型の穴に男性は左手、女性は右手で願いをこめた「運玉」を投げ入れることで願いがかなうとされています。 かつては、貨幣を投げ入れる風習でしたが、これを拾う子供がいて問題となり、昭和29年頃から鵜戸小学校の児童らによって作られる素焼きの「運玉」が使われることになりました。

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「ウド」は空(うつ)、洞(うろ)に通ずる呼称で、内部が空洞になった場所を意味します。 創祀の年代は不詳ですが、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝えられています。

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平安時代以降は、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えました。

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女優である土屋太鳳の祖先がこの神社を守っていたそうです。

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社殿は、本殿・幣殿・拝殿が一体となった権現造(八棟造)これら葺きで、極彩色を施しています。幾度も改修を行っていますが、その様式は古代のままで、文化的価値は非常に高いです。

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ソテツの群生と日南海岸です。亜熱帯植物群は、日南海岸のどこでも見ることができます。