国道1号線の芦之湯から元箱根の精進池までの区間には鎌倉時代後期の一時期に集中して造られた石仏や石塔が多数見られます。江戸時代前は、箱根越えとして「湯坂道」が使われていましたが、険しい地形や荒涼とした風景から「地獄」とみなされ恐れられていたようです。「地獄に落ちた人々を救ってくれるのは地蔵菩薩」という地蔵信仰が全国へ広がる中で、「地獄」と恐れられたこの地も旅人を慰めるため地蔵信仰の霊地となっていったと考えられます。

 交通機関:元箱根・箱根関所(宮ノ下経由)行きバス

乗車バス停:箱根湯本駅

下車バス停:六道地蔵

所要時間:約30分(週末は予測できません)

 箱根旧街道石畳からも足を延ばせます。石畳をお玉観音からお玉ケ池の方へ進み、県道732号線を左折して畑宿入口で国道1号線と合流します。50m先の大芝バス亭から2つ目が六道地蔵です。

【宝篋印塔(ほうきょういんとう)残欠】 室町時代初期に作られた石塔で、全国各地に伝説が残る“八百比丘尼(やおびくに)”の墓と呼ばれています。“宝篋印塔”とは宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔で、供養塔や墓碑塔として建てられたものです。建立当時の記録がなく、笠と相輪の形状が不明なため残欠となっています。

【磨崖仏(俗称応長地蔵)】 精進池(しょうじんがいけ)の畔にある高さ123センチの安山岩に3体の地蔵菩薩が掘られています。応長元年(1311年)の銘があることから「応長地蔵」と呼ばれています。向かって右にはやや小さめの龕内(すしない)に追刻と見られる2体の地蔵菩薩立像があります。

【地形上の特性】 上二子山と駒ヶ岳の鞍部にある精進池の畔に位置し、地質的にも上二子山の溶岩と駒ヶ岳の溶岩の境界部にあたります。また、元箱根から続く箱根町断層の延長線上に相当すると考えられます。

【経年による劣化】 硬い安山岩でできた石仏・石塔ですが、長い年月風雨にさらされることにより、表面が風化摩耗したり、苔に覆われたりします。また、植物の根により岩盤の亀裂が広がる箇所も見られるようになりました。

【磨崖仏(俗称六道地蔵)】 大きな岩盤に掘られた高さ3.5メートルに及ぶ地蔵菩薩坐像で、鎌倉時代に造られた磨崖仏としては線刻のものを除くと関東では最大級のものです。銘文からは正安2年(1300年)の造像であることが読み取れます。

【宝篋印塔(俗称多田満仲の墓)】 永仁4年(1296年)成立したこの塔は高さ3.6メートルに及びます。多田満仲(ただまんじゅ)とは源の祖といわれ清和源氏発展の礎を作ったことで知られる武将です。宝篋印塔の北面には如来坐像が掘られており、他の3面には梵字が掘られています。

【磨崖仏(俗称二十五菩薩 西側)】 石仏群の中の最大の目玉がこちらです。国道1号線の西側の安山岩に21体の地蔵菩薩立像、阿弥陀如来立像と起用菩薩立像が各1体刻まれています。この磨崖石仏群は、20人ほどの地蔵講の結縁衆が永仁元年(1293年)に先祖の霊を供養し、現生の利益を願って造像したことが銘文から明らかになっています。

【唯一の庇】 北向きの地蔵菩薩の上だけに庇が設けられています。

【西向きの小さな地蔵菩薩】 アップで撮っているので解り難いですが、高さは20センチ程度です。早春の陽は弱く陰も黒く潰れません。

【唯一の阿弥陀如来立像】 阿弥陀如来様は、死者の臨終に際して西方極楽浄土から迎えに来る時の印相をしておられます。

【西向きの地蔵菩薩】 石工によって龕の形状も異なるのが面白いです。午後4時頃はこの角度で順光となりますが、石仏群が様々な向きにあるので変化を楽しめます。

【磨崖仏(俗称二十五菩薩 東側)】 国道の反対側の巨石にも3体の地蔵菩薩立像が刻まれています。巨石全体の風化が激しいことがお分かりいただけるでしょう。